夕星に か行き斯く行く 叶の果ては




「起きて大丈夫なんですか?」
 広い縁側に面した、風の通る座敷。
 普段なら窓際に敷かれた布団で一日の大半を過ごしている相手の、今日は起きて自ら浴衣を着付けている姿を見て少年は咎めるように声をかける。
 畳の上にいい加減にたたまれているだけの寝巻きは、淡い縹に大柄の朝顔。
 そして、少年の声に振り向いた顔は人形が命を吹き込まれ動いているかの如くで、その面を縁取るぬばたまの下ろし髪も肩を越すほどに長い。
 身に纏う女物の着物を脱ぎ落とした襦袢一枚の姿でも、その性別を言い当てられる者はまずいないであろう。
「大丈夫。浜路と約束したし」
 深い紅の襦袢の上、纏うのは薄い白地に朱や赤で花や金魚を染め抜いた愛らしい浴衣。
 慣れた仕草で襦袢と揃いの色の兵児帯を締める、他人の目には少女としか映らぬ少年は、その容貌を裏切った大雑把な口調で庭先の少年に返す。
「そういう問題じゃないでしょう」
「俺にとってはそういう問題。…な、髪して」
 未だ明るい夏の宵。
 慣れた様子で座敷を横切り縁側に腰を下ろす少年の、その身に纏う些か落ち着いて見えた白の浴衣が、段染めの紅の襦袢が透かされ、白地が仄かに薄紅に染まり何とも言えない少女らしい風情をかもす。
 飾りに巻かれた帯留の鬱金と山吹、そして巾着の子供らしい浅黄が紅で統一された中に落ち着いた華やぎを見せている。
 それだけで十分祭の装いと映るだろうが、今日は徹底的に凝る気でいるのか少年は庭先の少年に、使い込まれた櫛と紙に包まれた飾りを幾つか差し出してくる。
「暑いから、上げて」
 よろしく、と。
 相手が断るなどとは微塵も考えていないような満面の笑み。
 人形と紛うばかりのその面が、生気を浮かべて輝くような。
 その表情に、今までも、これからも、少年が勝てはしないことを知っているのかいないのか。
「…退屈だと、暴れないで下さいよ」
 小さなため息。
 そして縁側に上がり後ろに回った少年はまず櫛を手に取り、その寝乱れた髪を水を含ませながら丁寧に梳き始める。
 通る風が時折髪を乱すのを、いちいち丁寧に直し、ゆっくりとぬばたまの髪が梳かれていく。
 艶を帯び始めたその髪を幾つかの房に分けて編み、香油や椿油を使う様子無く、紙縒りと簪のみで簡単に、とはいえ器用に結い上げていく。
 髪を傷めぬよう、痛みを与えはしないよう、その指先は緩慢なまでにゆっくりと。
 優しいその手つきに目を細め、暗くなり始めた空を仰いだぬばたまの双眸が薄っすらと見え始めた星の川を見遣って、何かを祈るように深く、目を伏せた。





   ……乃、信乃」
 呼ばれる声に、ふと引き上げられる意識。
 重たくもない目蓋を持ち上げれば、未だ明るい空の色と僅かに逆光に翳る青年の顔。
「荘介……?」
「こんな所で寝てると風邪引きますよ」
「平気。風邪なんて引くかよ」
 村雨がいるから。
 そういって唇を尖らせる子供そのままの姿に、荘介は淡く微笑を浮かべて信乃と目を合わせる。
「信乃?」
「……だって、本当のことだろ」
 剥れながら返す信乃に、反省はおろか謝る気配など微塵も無い。
 ふいと逸らされた視線を追うような無駄はせず、ただ諦めとも呆れともつかぬため息を一つ吐いて荘介は再び口を開く。
「……とにかく。夕飯の時間も近いですし、教会に戻りますよ」
 言って、引いた細い腕はけれど常と違い抗する力でその場に留まる。
「信乃?」
「先、帰ってろよ。俺はまだここにいるから」
 教会の庭の外れ、森との境界に程近い大きな木の根元。
 夕涼みに最適の場所であることは確かだが、見下ろす信乃の顔にはそれ以上の頑なさが窺えて荘介は軽く眉を寄せる。
 確かに信乃は、屋内にいるよりも屋外にいることを好む。
 暑さが日増しに強まっていくこの季節には、尚更だ。
 けれど未だ明るいとはいえ日は落ち、冷え始めた外気は剥き出しの肌には涼しいほど。
 まして、信乃が食事よりも夕涼みを優先するなど、異常行動としか言いようが無い。
「信、」
「……星、見るだけだから」
 呼び掛けは、半ばで遮られ。
 返された答えに、漸くその意図が知れる。
「……久し振りに、晴れましたね……」
 そういえば、と。
 空を仰いで呟く荘介に、信乃が子供のようにうん、と小さく返す。
 文月七日、七夕の節会。
 村にいた頃は毎年この日に夏の祭りが催され、身体の弱かった信乃もよく顔を出していた。
 最後に晴れを見たのは、教会に引き取られる前の、村で最後の祭。
 白地に花と金魚の赤が映える、子供らしい浴衣を着た年。
 その後晴れ空に星の川も、牽牛・織女の二つの星も仰ぎ見られた記憶はない。
「笹飾り、用意すればよかったですね」
 徐々に濃い藍色に沈んでいく空に、淡く浮かび始めた白の星。
 仰ぎながら呟いた荘介に、信乃は淡く微笑を浮かべるだけで、応じず。

 どれほど年を重ねようと、願いは幼いあの頃から変わらず。
 そして今はまだ、その願いは破られてはいない。


 ――ただ、傍にありたい、と。