結目―ユメ― <鳧鐘之月>




「真柴くん、これ、受け取ってもらえないかな…?」
 聞こえてきた少女の必死な声に、真也は進めていた歩みを思わず止める。
 正確には、その内容。
 自分が人の機微に聡いとはお世辞にも思わない真也だが、さすがに歩む先から聞こえてきたその言葉に、いま進むことが得策ではないというくらいの判断はつく。
 まして、裏庭という人気のない場所柄、ここで先へ進むのは野暮以外の何物でもないだろう。
 更に、声の中には知った名。
 今ここで顔を合わせれば、気まずいどころの話ではないことは想像に難くなく。
 思って、真也はその場からわずかに離れた木陰の方へと足を向けた。





******





「え、桜川?」
 隠れるでもなく太い幹に背を預け、木陰で涼んでいた真也を見付けて央生は思わず声を上げる。
「あ、もしかして、ずっといた?」
「悪い…。…立ち聞きするつもりはなかったんだが…」
 律義に謝罪の言葉を口にする真信也に、央生はどこか罰の悪い苦笑顔。
「それは別にいーけど。彼女に見られなかったか?」
「ああ、それは平気だと思う。…周りを見るような余裕もなかっただろうし」
 校舎の中へと走り去っていった制服姿の少女の姿を思い出して、真也は何かを堪えるようにわずかに眉根を寄せる。
 小柄な、肩の辺りまで伸ばした柔らかそうな栗色がかった髪の。
 その細い腕に抱えられたままの、然程大きくはない包み。
 淡い水色のリボンのかけられた、一見してプレゼントだと分かる、それ。
「…それなら、よかった。誰かに見られたなんて思ったら、余計辛いだろうから」
 その言葉に安堵の息を吐く央生に、真也は非難めいた色を宿して漆黒の双眸を相手に向ける。
「そう思うなら、もっと断り方があると思うが」
 非難と、わずかばかりの訝り。
 真也の声に滲む怒りにも似た響きに、央生は動じるでもなく罰の悪そうな苦笑顔を情けないように少し歪める。
「あれが一番いーんだよ。下手に優しく断って未練を残されても、俺もあっちも辛いだけだし」
「だが、それにしたってあれは言い過ぎだ。大体お前は知らないかもしれないが、走っていく時彼女、泣いてたぞ!?」
 納得しかねる真也の、胸倉を掴まんばかりの勢いと激した声に、央生が珍しいものでも見たように小さく片眉を跳ね上げる。
 そこに宿る、驚きと、微かな不快感。
「桜川?」
 けれどその感情を奇麗に押し隠し、宥めるように呼びかけられるのに、真也の気分は自分でも驚くほどにささくれ立つ。
「好意を向けられて、それを受け取らないばかりか否定するなんていうのは、最低だ。まして、泣かせるなんて言語道断だろう!?そんな権利、誰にもないっ!」
 漆黒の瞳に宿る、強い非難の色。
 どうにか笑顔で取り繕っていたらしい央生の表情が、そこで、とうとう憤ったように歪められ。
「じゃあ!他にいい方法あんなら俺に教えてくれよ!今すぐさ!!相手を傷付けねーで、けど未練残さずきっぱり振る方法!!」
 逆に薄い夏服のシャツの生地を掴まれて、すぐ背後の木の幹に押し付けられる。
「、っ」
 それほど強くはないが背に走った固い衝撃に、真也は反射的に両の目をきつく閉じ、短く息を詰める。
 一呼吸置いて、再び開いた漆黒の双眸に映るのは、濃茶の双眸が、きつい光で睨めつけてくる様。
 そこにあるのは怒りというより、むしろ。

『何それ?タオル?』
『悪いけど、そんな安物の、しかもタオルなんていらないんだけど』
『大体アンタ全然俺の好みじゃないし』
『ま、今度はブランド物か何か持ってくれば考えるよ』
『さっさと戻れば?』

 低い声の、どこか普段よりも乱暴な印象の口調。
 紡がれる言葉が、真也の知っている『真柴央生』という人物には重なり得ないほど、残酷で身勝手。
 それに傷ついたのは、彼女よりもむしろ。

 央生、よりも、むしろ――。


「すま、ない」

 強い瞳にいたたまれず、真也は瞳を伏せて呟くように告げる。
 相手に伝わったかどうかは分からなかったが、それを確かめるために顔を上げるだけの余裕もなくて。
 身勝手すぎる自分に、心底嫌気が差す。
 知り合って、二ヶ月にも満たない、しかも話すようになったのはといえば半月ほど前、雨の中を一緒に帰ったあの後からで。
 人付き合いの不得手な自分が、けれどそれほど構えず向き合える相手。
 そして、過ごす時間を心地よいと感じられる数少ない人間。
 だからこそ、聞こえた、耳馴染んだ声の、聞きたくもないような言葉に、傷ついて。
 そう。
 傷ついたのは、庇ったのは、涙を流して走り去った少女などでなく、身勝手な言葉を吐く自分自身だ。
 自分の知るものとかけ離れた、その一面を突きつけられて。
 勝手に期待して、勝手に裏切られたと憤って。
 挙句、他人を利用してまで己を庇い、相手を非難して。
 身勝手どころの話では、ない。
「桜川?」
「…すまない…っ」
 居た堪れなくて、けれど謝る以外の言葉も、行動も、思いつかない。
 酷く痛いようなその声に、央生の瞳が暗く翳るのにも、気付けず。
「桜川?別に、そこまで深刻になんなくても…。てか、俺の方こそ八つ当たりみたいなことしちまったし…」
 ぎこちなく襟元から指が外され、子供にでもするかのように俯いたままの黒髪を宥めるように撫でられる。
 その馴染みない感触に思わず真也は顔を上げていて。
 上げた目の前、心底安心したように明るい笑顔を向けられて、真也は詰めていた息を漸く吐き出す。
「悪ィな。夏休み近いからさ、さっきみたいな子、結構多くてストレス溜まってたみてーだ。桜川に当たっちまって悪かったよ」
「俺、の方こそ。深く考えもせずに、勝手なことを言って悪かった。…俺も、寝不足で少し苛々していたから、八つ当たりに近かったかもしれない」
「んじゃ、ま。お相子ってことで」
 にか、と気持ち良く笑う相手に、真也も微かに表情を和らげる。
 そんな真也の様子にふと何かに気付いたように、そういえば、と央生が切り出す。
「寝不足って、春にもそれで倒れたよな?桜川。大丈夫か?」
「ああ。別に、心配するほど酷くは…」
「や、そーでなく。いや、それもあんだけど、気にしてるのは原因の方」
「原因?」
 問われた言葉の意味を図りかねて、真也が鸚鵡返しに問い返すのに。
「だから、何か眠れねー理由とか、あんじゃないのかと…」
 悩み事とか、心配事とか。
 言いながら、心配そうに顔を覗き込んでくる相手に、真也は表には出さないままわずかばかり怯む。
 大らかなようで、存外に鋭い。
 それが持ち前の運と勘の良さから来るものなのか、央生の性格から来るものなのかは判じ得ないが、その不意に核心を突く発言は、真也の幼馴染である正人のそれにどこか通じるもの。
 要するに、真也の苦手とするものだ。
「いや…。1学期が終わったのと2学期の準備で、生徒会の方の仕事が立て込んでるだけだ。本当に、心配されるようなことじゃないから」
 平気だ、と続けられるのに央生がそっか、と柔らかに安堵の息を吐く。
 その様子に、今度眉を顰めるのは真也の方で。
「俺のことなんかより、自分の心配をしろ。頼まれもしないことで自分でストレスを溜め込むなんて、馬鹿みたいだぞ。大体、夏休み前に増えるというなら、これからもっと増えるだろう?」
 咎める言葉は、先ほどとは内容を180度違えるようなもので。
 一瞬瞳を見張った央生は、それから嬉しいような困惑したような複雑な苦笑。
「そーはいっても、振るからには傷付けることに変わりはないし。一番傷の浅くてすむ方法をとるのは、最低限の礼儀だろ?…傷ついてんのは、俺じゃなくて彼女達だよ」
「違うだろう?」
 笑みで誤魔化し、言葉で躱して。
 そうして、傷を見せないどころかないことにしようとでもしているかのような相手に、真也は思わず反論する。
「告白してくる相手が、それぞれ一番傷ついてるのは確かだろうけど。…それでも、それぞれ全部に対して傷ついて、一番辛いのは、お前だろう?」
「………」
「わざわざ、分かっていて、傷付きにいってるのは、お前だろう?」
 真っ直ぐな漆黒の瞳が覗き込むように、真摯な言葉に偽りのないことを証していて。
 央生は、返す言葉を、見失う。
「………………なぁ」
「何だ?」
「ちょっとだけさ、愚痴ってもいい?」
 寝てていいからさ。
 言って、真也の背にしていた木に歩み寄り、凭れるようにして地面に腰を下ろした央生が、自分の隣を軽く叩いて示し相手にもそこに座るように促す。
「俺は愚痴って、桜川は眠って、ストレス解消!」
 素直に従った真也に笑みを向けると、央生はその真っ直ぐな漆黒の瞳を避けるように正面に向き直る。
 その、わずかに高い位置にある横顔を見ると話に目で追えば、視界に眩むような夏の木漏れ日が降り注ぐ。
 真夏のそれには及ばないが、それでも太陽は苛烈に輝き、肌に触れる空気も生温いというには熱い。
 けれど二人の腰を下ろす木陰には涼しい風が通り、半袖の腕にも寒過ぎず、過ごし易い。
「さて。じゃ、勝手に愚痴るから桜川も寝てろよ」
「…分かった」
 笑み交じりのどこかずれたような言葉に、真也も小さな苦笑で応じる。
 さわ、と高い位置で葉の鳴る音。
 穏やかに響く耳馴染んだ声と、心地よい空気。
 ここでなら、夢など見ないだろうと、根拠も知れない思いが湧いてくるほど。
 気付けば、重くもなかった瞼が自然落ち、真也は静かに意識を手放した。