結目―ユメ― <下無之月>




「しーんや!おっはよ〜vv」
 男にしては高くよく通る声と共に軽く背を叩かれる感覚に、真也は声を掛けてきた相手へと首を巡らす。
 真っ先に視界に入るのは、夏めいてきた初夏の陽に鮮やかな黄金の光を弾く髪。
 そのままわずかに低い位置に視線を落とせば、明るく強い青の双眸と目が合う。
「お早う。今日は、早いな」
「ま、ねー。予算案の決議くらいは出とこうかなーと思ってさ」
「……生徒会長のくせに、会議という会議を悉くすっぽかしたからな…お前は……」
「だってー。あんな前例に則っていくだけの会議なんて、僕が出る必要ないじゃんか」
 形だけー、と。
 唇を尖らせながらも楽しげに嘯く相手に、その「前例にのっとった」「形だけ」の会議の、根回しを含めた全てを押し付けられる形となった生徒会副会長は、頭痛を堪えるようにそのこめかみの辺りを押さえる。
「…形だけ、じゃない。形が、必要なんだ…」
 呻くように呟かれる、真也の言葉。
 その言葉に浮かぶ、呆れを滲ませた疲労の色は正人相手に言っても仕方ないだろうと言う意味合いよりも、恐らくは分かっているだろうことを、分かっているだろう相手に告げねばならないことに対して、だ。
 案の定。
「分かってるよ〜。それでも、ねぇ?」
「……ならせめて、役員を一人でもいいから増やしてくれ……」
 生徒会長と生徒会副会長だけの執行部なんて成り立たない、と。
 生徒会長がほとんど仕事を放棄しかけているため実質一人で仕事をこなす形となっている真也は、切実な声音でそう訴える。
「んー…。それは、まぁ考えてないこともないんだけど」
 今は、そんなことより、と。
 言って、急に覗き込むように顔を近付けてきた正人に、けれど真也は身を引くでもなくただ不思議そうに首を傾げる。
 そのままの間近い距離で瞳を覗き込まれ、伸びてきた手のひらが額へと宛てられる。
「うーん…。熱はない、みたいだね…。けど、目はちょっと赤いかなー」
「御来訪寺?」
「真也、寝不足?」
 逸らすことも叶わぬほどの至近距離で瞳を覗き込まれたまま、鋭く図星を差してきた正人の言葉に、真也の息が小さく一瞬、詰まる。
「……い、や。別に、そんなことはないが……」
 それでも辛うじて、平坦な声で嘘を返せば。
 目の前の幼さの色濃い容貌が、更に幼さを増すような満面の笑みを、浮かべる。
「はい、寝不足なんだね。何と幸運なことに!今日はこの僕がいるから、予算案決議のことは憂えることなく、保健室でしっかり仮眠を取るんだよ。授業なんて一日くらい出なくても真也は平気でしょ」
 どうせ出てたって、しよっちゅう生徒会の仕事してるんだし、と。
 矢継ぎ早の台詞に圧倒されたまま頷いて、背を押されるがまま歩み出しそうになるのを何とか思い止まり。
「平気だ。大体、資料にすら目を通してない相手に憂えることなく任せられるか」
「誰に向かって言ってるのさ、真也!資料なんて必要ナッシングだよっ!」
「………………御来訪寺」
「ま、それはさすがに冗談としてもさ。資料ならどうせ真也が纏めてくれてるんでしょ?なら、今から目を通しちゃえばいいんだし。だから真也は今すぐ保健室行って、睡眠薬でも何でも貰って寝ること!」
 ぴっ、と。
 躊躇の欠片もない勢いで目の前に突き付けられた正人の人差し指に、一瞬呆気にとられたように切れ長の瞳を見開いた真也は、それから観念したように小さく息を吐き、頷く。
 どうせ何を言っても、敵いはしないのだ。
 それはもう、幼い頃から。
「…9xy3y/p@yg」
 ぽつりと呟かれた記号の羅列に、正人が訝しげに眉を寄せる。
「……何それ?って、ああ。パスワード?何でいちいちロックかけるかなー」
「…一応部外秘だろう…っ!」
「何!?頭痛、あったの!?なら何でさっさと保健室行かないかなー」
 話す途中、あからさまに眉間を顰めた真也に、眉を吊り上げた正人が、呆れたような口調ながらも有無を言わせぬ雰囲気。
 とりあえず伝えるべきことは伝えたと判断して、真也はその言葉に逆らうことなく爪先の向きを変えた。





******





「失礼します、乃木校医…」
 ノックと共に声を掛け開いた保健室の扉。
 その向こうにいるはずの相手へと向けられた台詞は、けれど無人の様子の室内に中途半端に途切れる。
 部屋の入り口には鍵も掛けられないまま、机の上には電源を入れられたままのノート型パソコン。
 そんなに長く、ここを離れる風ではない。
 もしくは、急患が入ったのだろうか。
 思考を巡らせて鈍い頭痛をやり過ごしながらも、緊張の糸が切れたせいか不意に襲ってきた眠気からくる目眩に、真也は半ば無意識に部屋の脇にある治療台として使われるベッドへ向かう。
 目の奥に、大きな砂粒でも入ったかのような不快な刺激を伴う、鈍い痛み。
 じっとしているだけでも、平衡感覚の狂ったような断続的な目眩と、芯をきつく絞るような鈍痛が、頭の内を奇妙に白々と掻き回す。
 ぐら、と。
 一瞬視界が、透明な陽炎のように揺らぐ、感覚。
 そのままベッドの縁に腰を下ろせば、今まで立っていられたのが不思議なほどの倦怠感と心地の悪い火照りが全身を侵してくる。
 眠い。
 身体中が、明らかに睡眠を欲している。
 幾日まともに布団で寝ていなかったかと思い返そうとして、それすらも奇妙に揺らぐ頭に妨げられる。
 肉体は、明らかなまでに休眠を欲しているのに。
 精神は、頑ななまでにそれを拒み続けていて。
 ぐらぐらと、透明な陽炎が、視界を、思考を、侵し続ける。
 眠い、のだ。
 静かな空気に、横になれる場所。
 そのまま眠ってしまえるはずの環境は、充分以上に整っているのに。
 妙に苦しい息に首元のネクタイを緩めながら、ふと真也はぼやけた瞳を上げる。
 静かな、空間。
 だからこそ、耳に突いた。
 不自然な、音。
 音というよりそれは、潜めた声に近かったような、と。
 巡らせた瞳に映るのは、幾つか並ぶベッドの内、間仕切りであるカーテンの引かれたもの。
 そういえば、校医は外に出ているとばかり思い込んでいたせいで、奥にいる可能性もあったことに考えも至らなかった自分に、真也は頭を抱える。
 どうやら、自分で思っている以上に参っているらしい。
 予算決議を御来訪寺に任せてきて正解だったかと内心に呟きながら、真也は普段の倍は緩慢な動きで音の元であろう方へと向かう。
 引かれた、清潔そうな白いカーテン。
 近付いてみれば、確かに人の気配。
 これほどあからさまな人の気配にも気付けなかったのかと、今の自分の状態の悪さに改めて驚きながら、カーテンに手を掛ける。
「乃木校、………」
 校医、と。
 続くはずだった言葉は、しかしそこで、途切れる。
 開けたカーテンの向こう。
 予測に違わず、人の姿はあった。
 が、予測と異なりそこには求めていた相手の姿はなく。

「……………」
「……………」
「……………」

 カーテンに手を掛けたまま、声を掛けた真也は固まり。
 ベッドに腰掛けていた男子生徒と、そのすぐ正面に屈んでいた女子生徒も、声を掛けられた瞬間の姿勢のまま。
 そのまま、奇妙に居心地の悪い沈黙のまま時は流れ。

「……っきゃあああああああっ!」

 真っ先に我に返ったのは、正面の相手の肩に手を掛けていた女子生徒だ。
 我に返るなり上げられたその叫び声に、漸くその目の前の男子生徒も、真也も我を取り戻す。
「あ、」
「うそっ!桜川クンっ!?やだ、何でっ!?」
 頬を上気させながら近寄ってくる相手は、どうやら自分を見知っているよう。
 しかし、未だクラスの人間すら把握しきれていない真也の方には、当然の如く見覚えすらもなく。
「あ、の…」
 せめて名前を尋ねようと口を開くが、極限に近かった睡眠不足に加え突発的事態に面してしまった心労が重なり、呂律すらも上手く回らない。
 ふわり、と。
 一瞬身体の浮き上がるような感覚。
 危ない、と思った瞬間には、もう意識は透明に途切れ。





******





「あ、起きた?」
 気分どう?と。
 浮上した意識と開いた視界に、極々近くに感じられた相手に真也はベッドに身体を横たえたまま目を瞬く。
 幼い頃から見知った金色の髪と青の瞳の、見慣れた造作。
 子供の頃からあまり変わっていないような、高さを色濃く残したよく通る声。
「御来訪寺?」
 名を呼ぶ声はしっかりとしたものだが、見返すその漆黒の瞳は、どうして正人がここにいるのかも、どうして自分がベッドに寝ているのかも、そもそもここがどこなのかも上手く把握しきれていない様子がありありと分かる困惑げなものだ。
「ここ、保健室だよ。今はお昼休み。真也、朝、保健室まで行ってそこで倒れたって…覚えてる?」
 ゆっくりとした口調でなされる説明に、真也は寝起きでどこか朦朧とする頭でどうにか記憶を辿ってみる。
 朝、予算会議のため早く登校してきて。
 そこで珍しく、正人と会い。
 案の定というか、寝不足と体調不良を言い当てられて。
 会議を正人に任せたその足で、保健室に向かい。
 向かった先に、校医がおらず。待つつもりでいた室内で聞こえた物音に、奥のベッドへと向かい。
 それから。
「……叫ばれた後の記憶が、ないな……」
 順を追って思い出してみれば、確かに次に正人の声を聞くまでの記憶が途切れている。
 倒れたというなら、きっとその時だ。
 けれど。
「なら何故、ここに…?」
 枕に頭を預けたままの状態で、眉を寄せて独白のように口の中で小さく疑問の声。
 そもそも正人が、どうして自分が倒れたことを知り得たのかも、分からない。
 眉間に皺を寄せたまま黙りこんでしまった真也に、正人が声をかけようとした、その矢先。
「会長サン?アイツ、目ぇ覚ましたー?」
 閉められていた間仕切りの白いカーテン。
 それが顔を出せる程度に開かれ、その向こうから長身の人影がやや抑えた声で、正人に声をかける。
 近付く人の気配どころか、保健室の扉を開く音にすら気付かなかった己に軽く落ち込みながら目を上げれば、合った瞳にどことはなしに見覚えのあるような感覚。
 どこか持て余し気味の長身と、短く整えた茶色の髪。
 見下ろしてくる容貌は人好きのする整ったもので、女子にもてるだろうなとどうでもいいことを思う。
「あ、よかった。起きてる。ダイジョーブ?」
 少し頭、打ってたみたいなんだけど。
 気遣うようなその問いに、けれど心配される理由が分からず真也は上体を起こしながらも疑問顔だ。
 けれど、元々顔に表情の出にくい真也のそんな様子に相手が気付くことなどあるわけもなく。
 気付いた正人が、口を開く。
「真也が倒れた時に保健室にいた生徒・Aだよ」
「誰が生徒・Aだだれがっ!」
 とんでもない紹介に、当然紹介された相手は思い切り反発する。
 けれどそのおかげで、どこか見覚えのある相手とどこで出会っていたのかを真信也は漸く思い出す。
 あの時、カーテンの向こうにいた二人の生徒の内の男子生徒の方、だ。
 それでも、人の顔を覚えるのを不得手とする上、意識の朦朧とした状態にあった時の記憶では、多分とつけざるを得ないが。
 真也が一人納得している横では、未だ二人の言い争いが続いている。
「大体アンタ、さっきは俺が自己紹介する前に名前言い当ててたでしょーがっ!何で今更生徒・Aなんだよ!」
「紹介っていうのは長々するものじゃなくて、簡潔に相手に認識させるためにあるんだよ?そのためには必要最低限の情報があればジューブンっ!」
「名前は必要最低限以下だろーがっ!」
「どうせ真也に名前言ったって分かんないんだから保健室で出会った生徒・Aで十分でしょ?それとも何?校医が出掛けている合間に保健室で逢引していた不埒な生徒・Aの方が良かった?」
「だから違うっつってんだろーがっ!」眠くて仕方ないから授業サボって寝に来ただけ!そしたらどこで聞き付けて来たのか知らないけどアイツが遊びに来たから、追い払おーとしてただけで…」
「それ、全然自慢できないよ。生徒会長様の前でよく言えたもんだね」
「アンタだって午前の授業サボってずっとコイツについてただろっ!」
「友人が心配だから側についてたって言うのはサボりとは言わないんだよ。麗しき友情は青春にはつきもの、ってね」
 そもそも僕がサボったなんて証拠を残すわけないじゃない、と。
 恐ろしく理不尽な正人の言葉に絶句した相手によって、漸く会話は一段落ついたよう。
「あ、……」
 不意に落ちた沈黙に、真也の小さな声が響く。
 その声に振り向いた二人の内、視線を向けられた男子生徒の方が、改めて口を開く。
「何?えーっと…桜川、クン?」
 ぎこちない呼び掛けに、真也は何故と首を傾げながら、それよりも気になっていたことを先に尋ねる。
「名前、を聞いてもいいか?」
 何だかんだで結局相手の名を知ることの叶わなかった真也は、まずそう切り出した。