二三時五九分、今日の終わり




「……疲れた……」
 呟いたきり、石川はその場所に崩れ落ちるように座り込む。
 目の前を行き過ぎるのは、鵝毛の白雪。
 柔らかな白の六花は、はらはらとわずかの空気にも揺らぎながら闇の中を舞う。
 光を帯びるようでなく、けれど闇に浮かび上がる。
 幻想的というに十分のその光景であったけれど、今の石川にはそれを美しいと感じる余裕すらなく。
 崩れ落ちるように腰を下ろした場所は、闇と茂みとに紛れた外からはまず見えないような位置。
 まるで、隠れるように。
 じわりと、地に着いた部分から這い上がるように冷気が這い登ってくる。
 コートも着ない身体には、いささかではなく寒いそれ。
 意思に反して身体は小刻みに震え出す。
 吸い込む冷気が、拒むように硬く喉に詰まり胸に詰まり呼吸すらもままならない。
 胸が痛む。
 喉が鳴る。
 頭の芯が眩んで、目の奥が痺れる。
 そのまま呼吸を止めてしまいそうになるほどの、苦痛。
 それは寒さのせいだけでは、きっとなく。


「見付けた」


 辛い呼吸に意識が朦朧とし始めた頃、不意に耳に届いたのは、そんな言葉。
 それは、聞き覚えのある声の。
「っ、」
 驚きに呑んだ空気に、呼吸が戻る。
 荒い呼吸。
 薄くなる、けれど決して失せはしない胸の痛み。
 喉が焼けるような感覚。
 揺らぐ視界が熱く熱を帯びる。
「にしわき……っ」
「上着も着ないで、風邪引くぞ。石川」
 言いながら肩に掛けられるのは、持って来てくれたらしい自分の上着。
 重たいようなそれは、初め温もりよりも冷たい違和感ばかりを感じさせるもの。
「戻るぞ。明日は早い」
 しゃがみこんで視線を合わせることはせず、ただ淡々とそう告げて寄越し。
 けれど座り込んだままの石川の手を引くようなこともまた、ない。
「……なんで、」
 思わず唇から零れるのは、喘ぐような言葉。
 今日一日、ずっと胸の内に溜まり続けた。
 否、今日一日ではなく「あの日」からずっと、胸の内に淀み続けていた。
「何で、俺なんだ…?…何で、あなただったんですか…?何で、まだ、一週間も経っていないのに……っ!!」
 悲痛というには虚ろで、けれどそれ故に痛い。
 譫言めいたその言葉を、西脇は一言たりとも逃さぬように真剣な瞳で耳を傾けている。
 ただ、耳を傾ける。
 けれど、次に石川の唇から零された言葉は。
「…悪、い…」
 響きの弱い、謝罪の言葉。
 漸くに上げた石川の瞳に写るのは、軽く瞳を眇めるような西脇の表情。
 その面に、先までの様子がまるで夢か幻のように軽く笑みかけながら
「大丈夫、だ。…明日には、きちんと…」
「石川」
 言葉を迷うような沈黙に、被せられるのは西脇の声。
 呼ばれる、名。
 それに、もう一度笑みを向け石川は立ち上がり。
「もう今日も、終わりだな」
 腕に嵌めた時計に目を落として、呟くようにそう告げる。
 針が示す時刻は、23:59。
「戻ろう」
 言って、歩みだす。
 その腕、を。
「西脇?」
 後ろから引かれて、思わず相手の名を呼ぶ。
 何だ、という疑問の調子は相手に伝わったに違いないけれど、返された言葉はその答えでなく。


「 はるか 」


 それは、今日までの。
 明日からは教官として立つ決意をしている石川に対してできる、恐らくは最後の。

 囁かれたその言葉に。
 見開いた、石川の瞳が。
 嬉しいような、寂しいような、曖昧な光で笑んだ。


title by 呼吸、に似た(閉鎖)