星祭り近く 熱孕む 夜の逢瀬に「悠?」 闇の中響いた男の声に、暗闇に浮かぶような淡い色の髪が弾かれたように振り返る。 岩瀬邸。 その西の対に程近い庭園。 丈の低い花木が植わっている辺りに、どこか頼りなく佇んでいた単姿の背に訝しく声をかけただけであった西脇は、その反応の鋭さに思わず目を見開く。 「っ、西脇…、様」 「だから、呼びにくいならいらないって」 いつまで経っても慣れぬ様子のとってつけたような敬称に、西脇はもう幾度目になるかも知れぬ断りを告げる。 この律儀な性格の主が、果たしてあと幾度言えばそれに納得するのかは分からないが。 「来てたのか…」 「岩瀬に用事があってね。悠の部屋に行ったら、この夜更けに蛻の空だったから」 心配になってね、と飄々と告げてくる相手に、 「その夜更けに、女人の部屋に取次ぎもなしで来る相手に、詰られる謂れなんてないだろ」 名を呼ぶ時とは裏腹に、実にくだけた、姫君らしからぬ口調で悠が返す。 日が沈んで随分と時間が経つのに、夜気に混じる熱は一向に失せる気配なく。 薄い狩衣姿の西脇は勿論、単一枚の悠にしても首筋の辺りには薄く汗が滲む。 息苦しいような暑気は、盆地という気候柄土地から逃げずに篭もる熱とこの国の持つ湿りを帯びた空気のせいだろう。 「……暑い……」 高くもない、けれど良く通る声が疲れたようなため息と共に小さく呟き。 その声に混じる、微かな水音。 「…どこにいるんだ?」 その水音の聞こえたのが、ちょうど悠の足元の辺り。 夏の闇に沈む庭園の様子は、自ら淡く光を帯びるような悠の姿とは異なり、ほとんど窺うことはできない。 だから、まさか、と思い問うてみれば。 「遣り水の中。…暑いんだよ」 だから水浴び代わりに、と。 闇を透かして知れた相手の咎めるような視線に、悪びれる様子など微塵もなく言い切ってみせた悠に、西脇は軽く頭痛を堪えるようにこめかみの辺りを押さえる。 「…こんな夜中に庭に出るだけで飽き足らず、裸足で庭に下りて遣り水の中に入る姫君があるか…」 「……仕方ないだろう。暑くて、箏の手習いもできやしないんだから」 わざとらしいまでに呆れた様子の西脇に、悠は唇を小さく尖らせる。 その台詞に聞きなれぬ言葉を聞いた気がして、西脇は小さく首を傾げる。 「箏の?…今更、何故」 悠の箏の腕前は、宮中の楽師に勝るとも劣らぬ一級品である。 好んで毎日のように爪弾いているのは知っているが、それをこんな夜更けまで手習うようなことは西脇の知る限り一度もなく。 問いに返される答えは、楽しげな様子の無い笑み。 「宮中で催される、乞巧奠の合奏に参じる栄誉を拝したから、だ」 どこか皮肉るようなそれに、西脇は苦笑を禁じえない。 入内しているわけでも、また女房仕えしているわけでもない悠の元にそのような話が舞い込む理由など、一つしかない。 「帝も、必死であらせられる」 「いい迷惑だ」 お蔭で新しい表着まで新調させられる始末、と。 岩瀬家に名を連ねる立場上、その体面を保つために断るわけにもいかなかった悠は、切って捨てる強さでそう告げる。 妙齢の姫君としてその感覚もどんなものなのかと思いながら、憮然とした悠を眺めて西脇は面白がる声音。 「まあ、いい機会だと思うけど。そうでもしなけりゃ、乞巧奠の祭礼に参加する気もなかっただろう?」 「当たり前だ。本来貴族でもないのに、許されるわけもないし」 岩瀬家当主に拾われて後、厚意に縋って養われているだけの身の分際で、そんなつもりはさらさらない、と。 言い切る声は、強く潔い。 それでも、岩瀬家の親子と悠の間にある確かな絆を知っている西脇にとって、悠の言葉が冷たい卑下や、拒絶の言葉には響かず。 それは、己に甘えることを許さない、悠の性質からくるもの。 だから継ぐ言葉も、躊躇いなく唇から零れる。 「乞巧奠は、手芸や機織の上達を祈るものだろう?宮中のものともなれば、その御利益は弥増すだろう」 悠の腕でも、人並みになる程度には。 からかう色のその言葉に、強く睨み返してくる琥珀の瞳に西脇は更に笑みを深める。 唯一、その凄絶とも言える縫い物の才の、その証を持つ男に、水から上がった「輝夜」の名を持つ「姫君」は部屋に戻る擦れ違いざまに高い位置の男の頬を強く抓って。 「乞巧奠まで、箏は聞かせてやらないからな」 響きよい声が紡ぐ、脅しというにも満たない、拗ねた子供のような台詞。 |