雛菊ノ巻




花色 あまく 心いざない





 手元で揺れる、一束の可憐な花。
 薄紅や淡い黄色、仄かな白を取り混ぜた可愛らしい花々は初々しい緑の若葉に包まれるように、その茎を束ねられている。
 今朝届けられたばかりの、花色瑞々しく、未だ朝露の気配すら残るその雛菊の束。
 その中から白の花を一本だけ抜き出し、香りを楽しむように静かに深く、息を吸い。
 ほんの微か、清しいような菊にも似た香り。

 それから。

 はぁ、と一つ。
 大き過ぎる、溜息。


「どうするかな…」
 高過ぎず、低過ぎず。
 それでいて通りよい耳に好もしい声は、けれど聞く者の気分を落ち込ませかねぬほど深く憂えている。
 幸い、それを耳にするものは本人以外いなかったのだが。

 くるり。
 くるり、くるり。

 脇息に凭れた左手の内で、親指と人差し指とで摘んだ白の雛菊の花を、手遊(すさ)びのように指の間で回し。
 右の手では、膝の上に広げられた文の上の墨色を、意味もなく辿っている。
 はぁ。
 再び零れる溜息に、かさりと文が揺れ。
 その音にどこか物憂く、ぼんやりとしていた瞳がわずかに焦点を現実に合わせる。
「…どう、するか…」
 再び零れる、同じ言葉。
 それは、文の上を流麗に流れる、墨文字に対して。
 つまり。

 今朝方届けられた、今悠の膝の上に広げられている文の、その内容に対して、だ。

 贈り主は、西脇巽。
 現在厄介になっている、橋爪家当主、橋爪紫乃と親交深い男で、数日前庭院で倒れたらしい自分を介抱した男。
 西脇家当主の一人息子であり、実質、現在家を取り仕切っているのは彼といわれている。
 辛うじて貴族の端に引っ掛かっている程度であった西脇家を、上流貴族と肩を並べるほどに盛り立て、宮中での勢力図の内に確固たる地位を築き上げた、年若い頭の中将。
 しかしながら、帝の覚えめでたい、というわけではないらしい。

 つら、と思い浮かべるのは、養われ先の岩瀬家の息子や一の姫、家に詰める女房達の噂話から聞き知ったことが、大半。
 それでも、これほどの事柄。
 世事に疎い自分ですら、これだけの事柄を聞き知るほどに、目立つ男であるのだ、西脇巽という男、は。
 それだけでも、身を隠したい自分にとっては厄介だというのに。
 つい昨日、言葉を交わしたばかりの相手の姿を思い起こせば、苦い思いがはるかの胸に甦る。
 精悍な顔立ちに、隙のない立ち居振る舞い。
 一見穏やかな雰囲気の裏に、酷く油断ならない、研ぎ澄まされた太刀の様に鋭く、一筋縄ではいかない空気を纏っていた。
 最後に残された言葉通り、その翌朝、つまり今朝すぐに届けられた文。
 つまり、悠の膝の上に広げられている文は、外出の誘いをしたためたもの、で。

 くるり。
 くるり、くるり。

 左手の内の雛菊だけが、物憂く揺れる中。


「悠さん?」

「っ、はい!」


 また。
 ぼんやりと、していたらしい。
 いつの間にか御簾(みす)の傍まで来ていた屋敷主――橋爪に声を掛けられて、悠は反射的にいらえを返す。
 多分に、慌しいものであったが。
「…?どうかされましたか…?」
 案の定、不審げに声を掛けられるのに。
「あ、いえ…。少し、ぼんやりしていたので、驚いただけです。…えっと、何か…?」
「……いつも、薬草を採りに行って頂いている時間なのにいらっしゃらないのでどうしたのかと思いまして…調子が優れないのでしたら、どうぞそのまま休んでいて下さい」
「いえ、参ります」
 調子が優れないわけでは、ないですから。
 言って、音を立てぬように膝の上の文と文箱、雛菊の花を文机の下に、隠すように仕舞う。
 ――言い出す契機を掴めずに、橋爪には未だ、昨日西脇に言付けられた言葉も、この文の存在も、告げられずにいる。
 だからといって隠す道理もないはず、なのだが。
「ですが…」
「本当に、大丈夫ですから」
 言いながら御簾(みす)を上げ、相手の不安を払うように緩やかに笑みを浮かべる。
 御簾(みす)を挟まず異性と顔を合わせるなど本来夫婦でもあり得ぬことであるが、橋爪の中性的な面立ちや薬師であるというその立場、何より悠自身の貴族慣れしていない感性から、屋敷内で二人が御簾(みす)を隔てて対面することはほとんどない。
 それでも悠に気を遣ってか、橋爪自らが御簾(みす)を上げることはほとんどないのだが。
「今日は暖かいですし、少し転寝(うたたね)していたようです」
 すらりと並べる言葉は、半ばが虚言(そらごと)。
 それに心が痛まぬわけではなかったが、だからといって面倒事まで相手に背負わせるのは忍びなく。
「着替えてから、参ります」
 微笑んで。
 未だどこか気遣う色濃い切れ長の瞳を見返せば、腑に落ちぬまでも折れたらしい相手がゆっくりでよろしいですから、と言って踵を返す。

 その、姿勢良い浅葱の狩衣の背を見送り。
 その背が、渡殿(わたどの)の角を、折れたところで。


 溜息を、一つ。


「…全く、ろくでもないな」
 呟き思い浮かべるのは、二度ばかり会っただけの青年。
 いっそ文も花も送り返そうと、今朝から何度思ったことだろうか。
 それでもそれをしなかったのは、橋爪に知られずに行えることではなかったことが一つ。
 いま一つ、は。
「…花に、罪はないしな…」
 文机の下。
 影の内にあっても可憐に春を謳う様な、とりどりの雛菊。
 その花の束を拾い上げて、口接けるように顔を埋める。
 それから、茎を束ねる紙縒りを解いて。
「海里さんや…登たちにも、見せてやりたいな…」
 鮮やかな黄色の蒲公英(たんぽぽ)の生けられた、深めの鉢。
 そこに共に生けた、十数本を数えるだろう可憐な雛菊の花。
 あまやかな春の色合いは、気の早い、春の便りだ。


 贈り主を忘れて自然、唇に笑みを浮かべる悠は、ぼんやりと、物思うようにその琥珀の双眸を遠くした。