蒲公英ノ巻




黄色  春色  幼き日





 鮮やかに柔らかい春の色。
 淡く甘い春日(かすが)に、誇らかに輝くような黄色と萌葱(もえぎ)。

 あれは、いつのことだったか。

 確か、元服の義を終えたばかりの、未だ幼い頃。
 橋爪邸に、幼馴染みにも当たる齢近い屋敷主人の見舞いに行ったのだ。

 薬園の片隅から、塀を立てず小川の土手に広がる春野原。
 春日(かすが)に淡く光を纏い付かせるような、結わず下ろされた、肩の辺りで揺れる柔らかな髪。
 屋敷主人に似た色は、血の繋がりを思わせるもので。
 その下ろし髪が流れるのは、草花の地紋様のある春らしい浅黄(あさぎ)の水干。
 春の野に紛れる袴は晒したままの麻の色で、衿や肩口、袖から覗く単衣(ひとえ)の甘い紅梅がいかにも幼いよう。
 けれど花の中、背を向けるその立ち姿が、どこか齢に似合わぬ潔い風情だ。
 視線を感じたのか、振り向いた子供の手に握られているのは、衣の色に溶け込みそうな鮮やかな色彩を帯びた、春の野の花。
「しのさん、だいじょうぶでしたか?」
 聞いて来る声が、当たり前に幼い。
 それは、幼い姿と相容れない、その纏う空気を裏切るように。
「大丈夫、今は薬湯飲んで休んでる。…働き過ぎで倒れたらしい」
 そう告げれば、あからさまに表情を緩める幼い顔。
 俯いた顔が小さな安堵の息と共に、摘んでいた黄色の花を押し抱くように、胸元へ。


 そうだ。

 その手に摘まれていたのは、屋敷主人への見舞いの花だ。





******





「西脇、様?」
 未だ名残雪に半ばを覆われた、けれど確かにその下に息づく新たな息吹を感じさせるような、春の土手。
 濃い土の色と、初々しい淡い緑。
 空気に混じる微かな熱と、甘さ。
 泥の匂いと水の匂い。
 その中を、どこか慣れぬように呼ばれた自分の名に、ふと振り向く。
 土手の上、淡い萌黄(もえぎ)の単衣(ひとえ)に元結(もとゆい)でその長い髪を纏めた姫君らしからぬ姿の、けれどその凛とした美貌は誤魔化しようも無い、輝夜の姫。
 望月の夜、梅の木の下で見た神憑(がか)った姿にも、その翌日の午、御簾(みす)越しに透かし見た姫君然とした姿にも劣らずに、見る者の目を惹く。
「お久し振りです。橋爪様なら、奥の薬房にいらっしゃいます、けれど」
 告げる声の、どこかきびきびとした口調と、言い回しのぎこちなさ。
 日の光の下、自分を前にしても逃げるわけでも御簾(みす)の奥に逃げ隠れるわけでもないその様子。
 それでいて、媚びる様子も強張る様子も無い。
 それは、礼を告げたいと言われ、対面した時に感じた西脇の微かな疑惑を裏付けるもの。
 姿でも纏う衣でもなく、何よりそれは「姫君」らしからぬものだ。
 そして、それでいて、立つ姿、足運び、指先の動かし方一つをとって見ても、何より高貴で優雅なものであるのも、事実。
 それは酷い、矛盾であるのだけれど。
「お久し振りです。お身体は如何ですか?」
 巡る思考を僅かも見せることなく、柔らかな笑みと共に当たり障りない挨拶を返す。
「お蔭様で、大分良くなりました。橋爪様のお薬は、よく効きますので。今は、外に出る傍らほんの少しだけ手伝いをさせて頂いています」
 薬の材料や、食卓に並べるための草や芽を摘んでいるのだと、土手を西脇の方へと下りながら告げてくる。
 確かに、その腕に抱かれる浅い篭(かご)には、春の陽に芽吹いたばかりだろう柔らかな色の草や木の芽が集められている。
「へぇ。紫乃が薬園に人を入れるのは珍しい」
「手前の方だけです。奥の方は分かりませんし、何より毒になるものも多いそうですから。それにまだ体調が万全ではないからと、あまり外にいるのは止められていますし」
 後は此方で蓬(よもぎ)を摘んで終わりです、と。
 少しばかり残念そうに呟く姿が、思うより幼い。

 ――その印象に、重なる面影が確かにあるのだが。

 陽光を負っているわけでもないのに光を纏うようなその姿にほんの僅か目を眇めて、不審に思われぬ程度に相手を見つめる。
 辿る記憶は酷く曖昧で、それが事実なのか夢の残り香なのかすら判らない。
 それでも、放っておくにはあまりにも自分の内を蝕んでいるのだ、この感覚は。
「西脇様?」
 再度の呼び掛け。
 見れば、不審というより疑問の色濃く、その白い面が傾げられる。
 勘が良いのか、警戒心が強いのか。
 それとも。
「…いえ。外に出られるのは、お好きですか?」
「ええ。陽気の良い日は、特に」
 問いの答えは、呆気ないほど簡単に。
 是(ぜ)、と。
 それだけなら、拍子抜けして終わりであっただろうが。


 ふわりと、春のように笑う。
 その微笑み、に。


 眼を奪われたのは、瞬間吹いた風に長い髪が揺れたせいでもあり、在るとも無いとも知れぬ過去の記憶を刺激されたからでもあり、返された答えの無防備さに僅かばかりに呆れたからでもあり、けれど。

 けれど。

 それは単純に。
 ただその「綺麗」なものに、目を奪われた、という。
 それだけ、の。

 それは。
 四季折々の美しい風景や、内裏(だいり)や屋敷の内で見慣れた客人の溜息を誘うような調度や美術品など比ぶべくも無く。
 例えば、夢の残滓に僅かに残る幼い誰かの笑みの無邪気さよりも、見慣れて尚目を惹いてやまない幼馴染みの怜悧なまでの美貌よりも。
 そして月夜の梅の下、雪を踏んで此の世のものならぬ風情を醸(かも)していた目の前の相手の姿よりも。



 それらを凌いで尚、「綺麗」と。



 けれど、目を奪われたのはほんの数瞬ばかりのこと。



「…姫君とは、外歩きが嫌いなものでしょうに。特に岩瀬家の一の姫君ともなれば、生まれてから死ぬまで、浮世の天候すら知らずとも生きていけると思われますが」
 告げる声に、殊更皮肉は交えない。
 その必要も無いほど、その言葉に宿るのは挑発にも似た色だ。
 穏やかに作られた西脇の笑みに、白の面に緊張が走る。
 そして。
「野育ち、ですので。あまり姫君らしい振る舞いは、不得手なのです」
 あっさりと、こちらも作られた笑みがそう返す。
 いとも容易く明かされた相手の素性は、確かに西脇も掴んでいたもので。
 けれどこうも簡単に明かされるとは思ってもいなかったせいで、少々面喰う。
 ただ、見返した琥珀にも似た淡い双眸が。
 見透かすようなその瞳の、強さが。
 それくらいもう知っているのだろうと、告げて寄越しているのを感じて、示した手札を逆手に取られたことを、知る。

 輝夜の姫がその身を寄せる邸は、未だ明らかならぬもの。
 そしてどうも、慣れぬ相手の立ち居振る舞いは、「姫君」らしかろうとするものらしい。

 それらを踏まえて、西脇は一つ罠を、張った。
 鎌をかけた、と言っても良い。
 その真実の出自と目的、知り得る欠片を誘うために。
 それに加えて、多少の親切心――忠告も兼ねて。
 姫君であろうとするには、彼女の纏う振る舞いや言動を含めた雰囲気は、どうしようもなく異端であるのだと。
 けれど、あっさりと切り返されたその答え。
 その切り返しこそが疑惑を深めたことに気付いているのかは定かではないが、それを告げるにはあまりにも痛快で。

 確かに、西脇は目の前の輝夜の姫の出自を探った際、その身を寄せる邸と共に、その出自も僅かばかりに聞き知った。
 曰く、彼女はほんの2年ばかり前に岩瀬家当主である今中納言、岩瀬明に拾われ、養女となったのだ、と。
 その経緯(いきさつ)はおろか、拾われた大よその場所や大まかな年月、それどころかその事実すら内裏(だいり)の書庫には収められていなかったが。

「…風が冷えてまいりましたので、そろそろ失礼いたします。橋爪様も邸の方へお戻りだと思いますが、如何なさいますか?」
 告げる声が固く冷える。
 自らに、これ以上の失態を許さぬように。
「そんなに警戒しなくても」
 急に軽くなった口調で、心底愉しげにそう告げる西脇に、けれど琥珀の瞳に浮かぶ厳しい光は揺るがない。
「何の、ことでしょう」
「単純に興味があっただけだから、誰にも口外するつもりはないよ。これきり縁を切られるのは、ちょっと残念だし」
 何より紫乃は怒ると怖い。
 茶化すような、嘯くようなその台詞に、頑なだった瞳の光が僅かに緩む。
 それは、多分に呆れの色濃いものではあったが。
「紫乃はまだ戻ってないだろうから、言伝(ことづて)を頼んでもいい?」
「ええ」
 太陽の位置を目で測って、そろそろ帰らねば今夜の宴に間に合わないことを知る。
 邸へと戻る時間と紫乃の仕事の具合を鑑みれば、今日会える筈も無いことは訪ねた端から分かっていたのだ。
 それでなくとも、裏口から入ったようなものである。
 主自身には訪(おとな)いすら知られていないことであろう。
 今日この場を訪ねたのは、夢の残滓を辿ってのことと、僅かの期待があったと、それだけのこと。


「近い内に輝夜の姫に、外出の許可を、と」


「………はい?」
「ですから、貴女を外に連れ出すための許しをくれと、伝えて下さい」
「ちょ、っ。何で、外に、なんて」
 しかも、貴方と?
 辛うじて告げられなかった言葉は、けれどありありと表情から読み取れたが、西脇は気付かぬ振りで笑みを絶やさない。
「外に出るのは、お好きなのでしょう?」
「そうですけど!」
「これから、良い陽気ですし、病の方も快方に向かわれているとのこと」
「………っ」
「それではどうぞ、宜しくお伝え下さい」
 あからさまなまでに強い憤りの色で見据えてくる美貌は、それでも尚、美しいもので。
 相手が断らない、否、断れないだろうことを知って告げた遠回しの誘いの言葉は、その予想に違わず近い内に成就することだろう。
 自らの身分立場からも、そして何より生まれついての性質が、そう先手ばかりを取られて黙っていられないのだ。
 今日の最後に、漸く拾った勝ちに半ば作ったものでない笑みを浮かべれば、気を鎮めるように一度きつく目を伏せた相手が、次に瞼を上げる時には、こちらはあからさまに作った笑みで承りましたと、優雅な礼の所作。
「それでは、失礼いたします。どうぞ、お気をつけてお帰り下さい」
「姫君こそ、どうぞ御身ご自愛下さい。……ああ」


「に、しわ……っ?」

 春の光の中に、慌てたような上擦った声。


 鮮やかなまでに潔く踵を返したその背を、流れ落ちる艶やかな淡い色の髪を引かれたように思い顔を戻せば、元結から零れた鬢(びん)を掬う長く形良い他人の指と、柔らかな覆いを外した、どこか鋭く探るような、冷えた瞳の浮かべる笑み。
 白く透ける細い首がくっぴ、と小さく息を呑む間(ま)に、伸ばされた西脇の手指が頬からこめかみ、耳の後ろへと滑らされ。
「手土産もなしの訪問でしたので、それでご容赦を」
 後に残されたのは、耳元に掛かる微かな重みと別人とも思えるようなあまやかな笑み。
 その小さな重みを持ち上げた指で辿れば、するりとたやすく手の内へと零れ落ちてくる。
 顔の前に翳(かざ)した手のひらの内には、茎を残した鮮やかな黄色の花。
 無数とも思える細やかな花弁が、まるで黄金の細工物のように繊細に重なりまるい花を形作る、春の野の花。
 葉ごと採って乾燥させ生薬(しょうやく)とする。
 その効能は確か、健胃、解熱、浄血、催乳であっただろうか。
 手の中の春の色をぼんやりと見つめながら、耳に新しい穏やかな主治医の声を思い出す。
「……蒲公英(たんぽぽ)?」
「ええ。お嫌いでしたか?」
「…いいえ、好きです。私も、橋爪様も」
「知ってる。本当は抜いてしまってもいいのだけれど、と毎年土手を見ながら苦笑してるから」
 春の巡るごと、今二人の立つこの土手を染める上げる、春の黄色。
 それはいっそ息を呑むような、鮮やかで眩い。
 ゆるんだ雪の白と黒々とした土の色ばかりだと思っていた地面が徐々に緑で覆われ行き、そしてある日突然に、鮮やかに黄金にも似た色合いで土手一面をを染め変えるのだ。
 盛りの頃に西脇が訪れるたび、橋爪は必ず西脇を誘ってその圧倒的ともいえる景色を眺めては、そう言いつつ自分を呆れるように笑う。
 笑いながらも毎年その鮮やかな景色が失われないのが、容姿を裏切と言わしめる行動力を持つ土地の主の、何よりの想いの表れだ。
 その景色を、主の姿を思い出すように微かに唇を歪める西脇に、つられたように悠の表情も僅かに綻ぶ。
「一面春の色に染まるようで、嬉しいと仰ってました。何だか、大輪の花にも負けない姿なのに、野の花の方が好きらしくて」
「性質だろうな。まあ男だから、あまり容色を美しいと讃えられても嬉しくはないだろうし。派手な花よりも、良い生薬になる草木の方がよほど紫乃には好みだろう」

 少々勿体無い気もするけど、と面白がる調子で西脇が続ければ、それでこそ紫乃さんだから、とつられたような笑みで返される。


 それに、首を傾げたのはどちら先だったか。


「普段は、そう呼んでるのか?」
「………いえ、まさか」
 紅を引いた様子もなく淡く染まる唇を、隠すように蒲公英(たんぽぽ)を絡めたままの指先が口元を覆う。
 西脇の軽い疑問の調子とは裏腹に、悠の淡い色の瞳に宿るのは訳も知れない恐怖とも焦燥ともつかぬ色。
「……西脇様のが、うつったのかも、しれません」 
「だろうな。…それが、妥当だ」
 様をつけるのに慣れぬようだし、と追及めいたからかい混じりの続きの言葉に、もう慣れたのか返されるのは曖昧な笑みばかりだ。
「ありがとう、ございます」
 絡めるでもなく差し伸ばされた西脇の指が、悠の手から蒲公英(たんぽぽ)を抜き取り、結いもしない髪に再び器用に飾られる。
 花にか、それともその行為にか、どちらにとも取れる礼を告げて、浅く伏せられる美貌。

 差し直された、蒲公英(たんぽぽ)の花を気遣っての、緩い立礼。

 それでも流れる髪に従って、春日(かすが)と髪の淡い光に包まれるようにに陰影をを僅かに揺らめかせる。
 光纏うような淡い色の髪を、彩ることを誇るように鮮やかな黄色が揺れる。
 それは細工美しい金銀玉石を連ねた歩揺(ほよう)にも劣らぬ風情。
 見蕩れるでもなく、けれど掛ける言葉も思いつけず、今度こそ西脇は背を向ける相手をただ無言で見送る。

 互いの胸の内に忘れ難く宿る疑問の端が同じものであるのだと、互いに未だ気付けるはずもなく。





 その夕、紫乃に求めた小さな器に生けられたのは鮮やかな黄色の春の花。
 それは一度花を萎め、次に純白の綿の花を咲かせるまで身を隠す輝夜の姫の枕元を彩ったが、それが再び花開く前に別の花が、届けられる。

 外出の誘いをしたためた、文を添えられて。