梅花ノ巻望月 淡雪 梅花香 現(うつつ)と。 言い切るには余りに、希薄な。 白の小袖に緋袴、その上に羽織るのは薄紅に梅花の地紋様の浮かぶ表着(うわぎ)が一枚きり。 雪降り積もる庭園の上を彩る表着(うわぎ)の上に、背から足元へと流れ落ちる髪は、中天の望月にやわらかな光を纏い輝くような淡い色。 す、と通った鼻梁の横顔の、雪に照り映えてかその肌が白粉を刷いた様子も無いのに一際に白く目に映る。 纏う色彩のその淡さと、動を感じさせない姿良い静かな立ち姿。 何より、目にした者に瞬間息を呑ませるその清廉な雰囲気と美貌とが、その姿を現に在らざる者のように、相手に思わせる。 一心に、その瞳を咲き初めの白梅にか中天の望月にか据える姿に、西脇は渡殿(わたどの)の上で足を止める。 高欄の向こう、ほんの数歩しか離れていない位置に広がるのは、自分とは合い入れない世界のような。 奪われた視線は動かすことが出来ず、ただ只管(ひたすら)に、魅入られたまま。 どのくらい、そうしていたのだろうか。 呼吸幾度かの間であったのか、それとも数刻もそうしていたのか。 動くもののない、一幅の絵画のような光景の最中、唐突に女が動いた。 動いた――否、倒れたのだ。 「っ、おい!」 体も頭も麻痺したように、ただ惚けてそれを眺めていた西脇は、とさ、と薄くもない雪の上に女の倒れる音が耳に届く頃、漸く呪縛を解かれたかのように声を上げる。 そのまま低くもない高欄を身軽く飛び越え、沓(くつ)も履かぬままで雪の上を数歩駆け、倒れた女の許へ。 その傍に膝を付き、頭を打った様子の無いのを確かめてからその身体を表着(うわぎ)で包むように横抱きに抱き上げる。 そして、抱き上げた腕に絡む淡い色の髪を首筋から静かに除け、露になった白の首筋を探って脈を確かめ、僅かに弱いがしっかりと脈打つそれに一つ安堵の息を零す。 続けて呼吸も確かめたところで、さて、と視線を巡らせる。 目に映るのは見知った屋敷の北の庭。 友人の住居であるこの屋敷は大方が勝手知ったるものではあるが、今現在屋敷の主である肝心のその友人がどこにいるのか西脇は知らないのである。 屋敷自体は広いものでもないのだが、如何せん庭園を兼ねた薬圃は屋敷より広いのではと思われるほど。 加えて仕事中毒の気(け)のある彼は薬圃の世話を自ら執り、一所に留まっていることは少なく、屋敷にいたとしても見つけるのに一苦労なのだ。 そんな訳で四半刻ほど前から屋敷中を歩き回っている西脇なのだが、一向に探し人の気配はなく、見つけたのは腕の中の見知らぬ女。 取り敢えず身体を冷やさぬようにと女を腕に抱き上げて、どうしたものかと思案を巡らせた、その矢先。 「西脇さ、…悠さん!」 渡殿(わたどの)の方から、声。 見れば、先ほど自分の立っていた辺りに、長い髪を背で括っただけの姿の、性を迷うような美貌がらしくもない焦り顔。 「やあ、紫乃」 久し振り、と。 対する西脇の、場違いに朗らかな挨拶の声に、 「何したんですか!貴方は!!」 美貌の屋敷の主は、眦(まなじり)を吊り上げ詰問の調子。 そのまま高欄を飛び越えようとする相手を目で止めて、自らそちらへと歩み寄りながら心外だとばかりに肩を竦めて見せる。 「誤解だ。紫乃を探してたら、此方の姫君が雪の上で倒れられたんで介抱してただけだよ」 「外にいらしたんですか?…全く、此の方は…」 屋敷の主は勘違いに謝罪を言葉を述べながら、重さを感じさせない動きでそれなりの高さのある高欄を越えた西脇の、その腕の中で力なく瞼を伏せる女を見遣って小さくため息。 その仕草や口調に滲む、親しい調子に西脇は小さく首を傾げる。 「紫乃、いつの間に結婚してたの」 疑問に思ったことをそのままに口に出せば、何とも場の空気にそぐわぬものとなる。 怒るかと思った相手は、けれど突拍子もないその問いに、怒りよりも呆れを強く感じた様子で。 「何を莫迦な事を言ってるんですか、貴方は。彼女は私の患者です」 「へぇ?珍しいね、紫乃が個人的に、それも貴族を屋敷で治療するなんて。そんなに悪いの?」 「それもありますが…。懇意にさせて頂いている方の姫君で、その方のたっての願いでもあったので」 話しながら、此方に、と導かれ、御簾(みす)の下ろされた座敷の一つへ足を入れる。 その内は火鉢を焚かれて温められ、褥(しとね)の上の衾(ふすま)が整えられずに乱れていることから、梅か月かを眺めていた女は此処を抜け出していたのかと悟る。 橋爪が衾(ふすま)を持ち上げるのに、西脇は腕の中の女を褥の上に横たえる。 それから甲斐甲斐しく髪や衾(ふすま)を整え、脈や呼吸などを確かめる橋爪の様子を見遣り、苦笑ともつかない笑みを浮かべる。 「宮仕えも大変だ。典薬寮の司殿」 人のしがらみが多いと、皮肉のように口にすれば、 「貴方ほどではありませんよ、頭の中将殿。…まあ、それに彼女とも知らぬ仲ではなかったので」 心配だったのが大きな理由、と。 西脇の揶揄をさらりとかわしそう続ければ、その相手が悔しがるでもなく切れ長の瞳に面白がる色を強くする。 「それは、知らなかったな」 瞳に浮かぶその色を、そのまま映したかのような声音に、何を、と問い返すより先に相手の声が続けた言葉。 「俺の幼馴染みが、彼の輝夜の姫と知った仲だったとはね」 西脇の言葉に、余りに驚いた橋爪は咄嗟に声を返せず、その涼やかな目元を大きく見開く。 「…そんなに驚くこと?」 「……な、んで。分かったんですか……?」 余りのその驚愕の気配に、西脇が多少居心地悪く思いながら見返した橋爪の瞳は、真剣そのもので。 「何で、と言われても」 半ば確信ではあったけれど、確かにそれは勘というしかないもので。 「お知り合い、ですか?」 硬い声の慎重な問いに、まさか、と小さく笑みを向ける。 「帝までもが御執心の、絵巻物の現し身と名高い輝夜の姫と知り合う機械なんて、あるわけもないだろう?」 自身で言いながら、西脇は褥(しとね)の上で眠る女が橋爪の屋敷で療養しているわけを漸くに悟る。 要は、身を隠しているということだ。 「では、何故」 再度問い直してくる真剣な瞳に、 「望月の夜に月を仰ぐ姫君なんて、月から舞い降りた嫦娥か、月に帰る輝夜姫しかいないだろう?」 嘯く調子のそのいらえに、橋爪の瞳が漸く和らいだ頃。 ふわりと控えめに、梅花香が香り。 褥(しとね)の上の輝夜の姫が、その瞼を微かに震わせた。 |