祈り人 ―眠―




 眠気でぼんやりとする頭が、何も考えられずに慣れてしまった廊下を歩く。
 それは、寮へと向かう道ではなく。
「石川」
 見慣れた姿。
 呼ばれて、傍へと。
 相手の極近くにまで行けば、自然な所作で手を引かれ、隣へと導かれる。
 ぽたりと、首筋に冷えた水。
 今まで髪など当然に自分で乾かしていたのに、水滴を拭う以上のことを自分でしなくなってから随分久しいようなと。
 思っていると、濡れたままの髪にタオルを被せられ、慣れた仕草で髪を拭かれる。
 その間、隣に座る相手の肩へと凭れるように額を預けて。
 家族以外の相手と触れ合うことすら稀だった自分の、その甘えを含んだ行為に、未だ戸惑いを覚えながら。
 それでも、慣れてしまったその時間に、ひどく優しいようなその指先に、依存していっているのを止めることができず。





******





「髪、びしょぬれだぞ。石川」
 訓練校のトレーニングルーム。
 そのシャワールームの脱衣所の隅に座り込んでいた石川は、突如降ってきた声に慌てて顔を上げる。
 その動きは、本人の意思に反して酷く緩慢なものであったが。
 背に負う螢光灯の光に淡く影となった顔は、けれど確かに良く見知ったもの。
 瞳に染みるような眩しさに幾度か瞬きを繰り返しながら、石川は回らない頭にどうやら自分が寝入ってしまっていたらしいことを悟る。
「……にしわき」
 口の中の水分が全て干上がったようで、声を出そうとするだけでも口内や喉に引き攣れた痛み。
 それでも声にのせた相手の名は、どこか舌足らずな響きで。
「……俺、寝てたのか?」
 確認の色の強い問いの言葉に、見上げる位置にある西脇の唇から、軽いため息。
 その眉間にも浅いとは言い難い皺が刻まれるようで。
「…もう少し、何とかしろよ」
 その、どこでも寝るクセ。
 ため息混じりの言葉と共に脱力したようにしゎがみこんで、子供に諭すようにそう言い含めてくる相手に、石川はわずかにむっとしつつも小さく、悪い、と素直な謝罪の言葉を口にのせる。
 幾度も注意され、そして心がけてもいるつもりなのだが、疲れていると本当にどこででも寝てしまう。
 この訓練校にに入るまでは別に誰に迷惑をかけている訳でもなし、と思っていたのだが、その度に心配して捜し回ってくれる友人達ができてからは、やはり酷く申し訳なくて、何よりいつも、誰よりも先に自分を見つけ出してくれるこの目の前の相手に、どれほど心労やら手間やらをかけてしまっついるかが想像に難くなかったから。
 だから、子供に言い聞かせるような口調に反発を抱きはするものの、その内容は、何より自分の身を案じてくれているのだと分かってはいるのだ。
 分かってはいるのだが。
「石川、髪」
「え?」
 俯き、思案に沈みかけた相手の、その思考の途切れ間をついた絶妙のタイミングでかけられた西脇の声に、石川は弾かれたように視線を上げる。
 その視線の、脇を過る指先。 
 何だと問う間もなく、髪を掻き混ぜられる感触と頬に跳ねる冷たい水の感触。
 擽ったいような心地に思わず目を細める。
「髪、濡れたままになってる。風邪引くぞ」
 告げられ、西脇の手のひらが石川の肩にかかるタオルを掬って粗く水気を拭き取っていく。
 繊細な風ではなく、けれど決して乱暴でもない。
 荒いようなその手の動きが何だかひどく心地好くて、一旦は冴えたはずの石川の澄んだ色の瞳が、再びぼんやりと焦点を揺らがせ始める。
 頭の奥に微かに響く、髪の擦れる高いような音。
 時折耳許や項を掠めていく、わずかに湿りを帯びた柔らかなタオル。
 髪から散る水滴が、擽るように首筋や頬に冷たく跳ねる。
 何よりその大きな手のひらが、冷えた髪を拭いながらタオル越しに与えてくる熱が、本当に優しく。
 始めてのはずの行為に、なぜか感じるのは既視感めいた懐かしさ。
 けれど、夢うつつに触れてくるその手のひらや指先の動きが、疑問を感じる間もないほどにしっくりと自分の中に馴染んで。

 ひどく安心した想いが、その日の最後の記憶。





******





「石川?」
 ふと力の抜けた身体に訝しく声をかけると、案の定応えはなく。
 湿った前髪を手櫛で梳き遣れば、露になった目元は静かにその白い目蓋を閉ざし、頬に睫毛の濃い影を落としている。
 瞳を伏せ更に中性的に見える面差しの中、湯上がりのためかいやに目を引く赤い唇はゆるく結ばれ、小さく、ゆったりとした呼吸の気配。
 完全に、寝入ってしまったらしい。
 顔の造りも体付きもどう見ても男性のものなのに、男性的な匂いが酷く希薄で。
 間近い相手の寝顔に、睫毛が長いと、かなりどうでもいいことをふと思う。
「おい、石川?」
 軽く、触れるよりもほんの少し強い程度の力で頬を叩き呼び掛けるが、やはり何の反応もなく。
 諦めにも似た思いで、意識してひとつ息を吐く。
「……このままここにいても、どうしようもないな……」
 小さく呟き、もう粗方水気を拭きとった髪に湿ったタオルを被せたまま、いつも見つけた時と同様にその身体を横抱きに抱え上げる。
 腕にかかる慣れた重みに、けれどふと違和感。
 それに西脇の眉間が軽く寄せられ、数瞬思い巡らすような沈黙が落ちる。
 やがてその正体に気付いた西脇の眉間により深い皴が刻まれるが、埒がないことを早々に悟り、止めてしまっていた足を再び出口に向かって動かした。





******





「やっぱり、西脇が見つけたんだ」
 離れた所からかけられた声に振り返れば、予想通りの人物が片手を上げてこちらへ向かってくるところ。
「クロ」
 人気のないロビーのソファに、肩に石川を凭れさせて座っている西脇の後ろから背凭れに両腕を預けるようにしてクロウは二人を覗き込む。
 見ればやはりと言うか、石川は寝入っているらしく。
「本当直らないな−。石川のこの癖は」
 覗き込んだ寝顔は本当に熟睡しているようで、クロウは声量を落としながらも間近い距離のまま楽しげに言葉を紡ぐ。
「……全く……。誰かこいつに自覚か危機管理能力か自己防衛本能かどれかでいいからつけてやってくれ……」
 心底疲れたようにため息を吐きながら西脇が訴えるのに、
「無理じゃない?」
 あっさりと返される、クロウの否の答え。
 その答えを予想していたが、否定し得るだけの材料を持たない西脇は、更にため息を吐くだけで、話の方向をわずかに逸らす。
「…大体、どうしてここまで見事に自覚がないんだ?」
 あり余るほど、無駄なまでに、自覚をもっている奴もいるってのに。
 分けてやれ、とばかりに流される視線に、
「西脇が甘やかすからでしょ」
 その切実なまでの疑問を、再びあっさりと切り捨てるクロウの言葉。
 その返された言葉に、西脇が、彼にしては本当に珍しく絶句するらしい気配を感じて、更に楽しげにその整った面に笑みを浮かべたクロウは、すぐ見下ろす位置にある寝顔へと視線を向ける。
 整った、というだけではなく、酷く印象に残るその顔立ち。
 その無防備なまでの姿に呆れを通り越し半ば感心する思いだったクロウは、しかしふと鼻先を掠めた香りに首を傾げる。
「…西脇」
「何だ」
「……石川、どこにいたの?」
 またランドリーかどこかのロビー辺りかと思っていたのだが、石川の髪から香る、微かに甘いようなこの香りは。
「……トレーニングルームのシャワー。の脱衣所」
 数拍の間を置いて嫌そうに返された答えに、クロウはらしくもなくわずかばかりの頭痛を覚える。
 いくら何でも、それは。
「……まだ、シャワールーム内の方が救いがあるよね……」
「……それは冗談か?」
「いや、個室で見つかりにくいって意味で。ま、西脇にしてみれば脱衣所で助かったって感じか?」
 さすがにシャワールームだったら、自制きかなかったんじゃない?
 いつの間にか立ち直ったらしいクロウから向けられるのは、端正な顔に浮かべられた綺麗な笑みを裏切るような、性質の悪い揶揄の言葉。
 眉間に皴を寄せて脱力するようだった西脇の面が、一瞬で、凍り付くように冷ややかな色を浮かべる。
「…クロウ」
「別に隠すほどのことでもないと思うけどね。大体、ここまで甲斐甲斐しく世話焼いといて、今更じゃない?」
 いつもどこにいるとも知れない石川を真っ先に見つけて、部屋まで運んで、今日に至っては髪まで乾かしてやって、と。
 冷えた瞳から視線を逸らすことなく、クロウの指先がもうほとんど乾ききっている石川の柔らかな髪を絡める。
「本当に、甘やかしが過ぎない?いくら何でも」
「…俺は世話好きなんだよ」
 含むところのあるような言葉に、けれどその裏を測りかねて、西脇は当たり障りのない言葉ではぐらかすように告げる。
 けれど笑みを拭い去ったクロウの瞳が、それを許さない。
「そういう意味じゃない。どういう種類の感情かなんて、知ったことじゃないね。ただ、どういう種類にしたって、度が過ぎてる気がするんだよ、西脇達のは」

「……それこそ、どういう意味だ」

 冷えた瞳が、更に冷ややかさを増す。
 彼と同期の、親しくしている者の中ですらも、石川とクロウくらいしか真っ向からその視線を受け止められないだろうと思われるほどに。
 それは、無言の肯定だとクロウは内心思いながらも、それを表情に出すことなく、言を継ぐ。
「分かっていることを、聞き返すなよ。大体、問い質したいわけじゃないことくらい、分かってるだろう?」
 常のような薄いガラスを隔てない漆黒の瞳が、真摯というにはどこか違う強い色で見据えてくるのに、西脇は嫌そうに瞳を眇める。
「どうせ、長続きなんてしないぞ。そんな関係は」
 忠告めいた、それに。
 西脇は一度口を開き。
 そして、閉ざす。
 それは、返す言葉を持たないからではなく。

「タイムアウト、か」

 西脇の動いた視線の先を辿り、クロウが小さく呟く。
 二対の瞳に写るのは、西脇の肩に凭れたまま薄い目蓋を震わせた石川の姿だ。