PANSS「、っわ」 息を詰めたような声を掻き消すように、重たいものが落ちる音。 開いた扉から今まさに室内に入ろうとしていた西脇は、滅多に見せない驚きの表情で、踏み出しかけた足を止める。 視線の先には、同室の恋人。 膝をついた床の上に散らばるのは、大量のファイルや書類のようで、響いた音の正体はすぐに知れる。 はぁ、と小さく息を吐いたしなに上げた視線が西脇を掠めたのか、涼やかな目元が振り返って入り口に立つ姿を捉える。 「あ、西脇さん。すみません、散らかしてしまって…」 「どんなことより、大丈夫?」 「はい。たまの非番だったので、古いものの整理をしようと思ったんですけれど…」 告げながら零されるため息に、西脇は苦笑交じりにお疲れ様、と小さく返して書類を集める橋爪を手伝う。 紙の多くは書類というより覚書やメモの類のものらしく、見覚えのある筆跡に何となく目を落とすけれど橋爪の専門に関わるものなのか内容はほとんど理解できない。 その中で、ふと目に付いたのは数枚に渡ってワープロ文字の連なっている一組の書類。 生年月日や現在自分のいる場所や、今日の日付を聞くことから始って、次第に思想やら道徳、果ては幻聴やら妄想やらの有無を問うような内容からボールとみかんの共通点や諺の意味を問うものまで、様々な質問を並べ立てた質問集のようなもの。 分厚いその質問の間には、橋爪の筆跡で細かな文字が綴られている。 「西脇さん?」 動きの止まった西脇を訝った橋爪が声をかければ、西脇がうん、と煮え切らない返事。 それに更に眉間を寄せた橋爪がその手元を覗き込んで、あ、と声を上げる。 「すみません、あんまり見ないで下さい。それはまだいいんですけれど、実際の臨床の場で使ったものもあるので」 それは、友人同士で練習に使ったものだから構いませんが、と。 告げる橋爪に、漸く視線を上げた西脇が、 「これ、何?」 問う声に混じる、どこか真剣な調子。 それを不思議に思いながら、橋爪はPANSSの質問表ですよ、と聞き慣れないだろう言葉を正直に告げる。 「パンス?」 「PANSS…統合失調症陽性・陰性症状評価尺度、のことなんですけれど。その、質問表です。そうやって面接を一通りして、その答えや様子から得点換算して症状を評価するんですよ」 「…統合失調症…」 呟くように告げる西脇に、それが何か?と問えば、 「いや、見覚えのある質問の羅列だなぁと思って、ね」 「え?」 思いがけない返答に、今度は橋爪が驚く番だ。 「訓練校に入学して暫く経った頃に、何人かずつ呼ばれてね。色々質問されたんだ。俺の他にもクロや、石川もだったかな?これ以外にも、自殺したいと思ったことはあるかだの今幸せかだの色々質問攻めにあって。あとで何人かで確認したらそっちは殆どやられてたみたいだったな。結局調べても、何だったのか分からなくて、適性検査か心理テストかだと思ってたんだけど」 まさか精神病を疑われていたとはね。 苦笑交じりにそう言う西脇に、橋爪の方が驚いて返事をしかねる 基本的に統合失調症の質問集であるが、一応それ以外のスクリーニングにも使われる質問表である。 西脇の質問を聞く限り、他にも感情障害や人格障害のスクリーニングも受けているようで。 しかし、現在の彼らしか知らない橋爪にとってはわざわざ専門的なテストを行わなければならなかった意味が、どうにも理解できない。 「…何だか、変な感じですね…」 「?何が?」 「メジャーなテストではありますが、これは統合失調症の評価表です。しかも、簡易とは言い難い。専門ではないので言い切ることはできないですけれど、皆さんにそういう雰囲気を私はかんじた事が無いですので」 不審げに呟く橋爪に、西脇は軽く目を見開いた後、すぐに小さく苦笑を浮かべて返す。 「昔は俺達も、若かったんだよ」 はぐらかすようなその返答に反駁の言葉を投げようとして、けれど仰ぐように見上げた相手の表情に、橋爪は思わず口を噤んでしまう。 苦いような、懐かしむような、どこか自嘲の混じる笑み。 それは橋爪には知りようもない、近付くことすらできない、西脇の過去だ。 できない、どころではなく、もしかすると近付くことを許されてすらいないかもしれない、そんな。 「それにしても、精神科まで手を出してたの?」 「国家試験の単位で必須なんです。私の大学ではポリクリでも行きましたし、こちらに配属になる前に、常勤の精神科医がいないということを聞いて一応一通り資料もそろえてさらいましたから」 「へえ。仕事熱心だなぁ」 「自分が不真面目と思ったことは無いですが。こちらに勤めるようになってからは、殊更自分が熱心だと思ったことは無いですね」 私よりはるかに熱心すぎる人が多すぎるもので、と。 皮肉を含んで向けられる視線に、西脇は小さく肩を竦めることでかわして、散らばった書類を集めることに意識を戻した。 日記ss再録. |